休むと罪悪感がある|何もしていない自分に、理由を求めてしまう
休みの日の昼過ぎ、ソファに座っている。
出かける用事はない。急ぎの仕事も、今日はない。それなのに、時計を見ると落ち着かなくなる。
もう二時だ。何もしていない。
せめて掃除をしようか。本を読めば、何か学んだことにはなる。明日の準備も、少し進めておこう。
休みたかったはずなのに、何かを済ませていないと、休んでいる自分を認められない。
体は止まっていても、頭の中では、自分を働かせようとしている。
そんな休みには、休息の予定をもう一つ増やすより、何が気になっているのかを見てみたい。
「休んでいい」と言われても、落ち着かない
疲れたら休む。それはわかっている。
人から相談されれば、自分でもそう答える。無理を続けてもよいことはないし、健康のほうが大切だとも思う。
けれど、自分が休むとなると話が変わる。
まだできることがある。ほかの人は動いている。これくらいで休んだら、だらしなくなるのではないか。
休んでよいかどうかを、疲れではなく、ほかの人との比較で決めようとする。
その比較には、終わりがない。世の中のどこかには、いつも働いている人がいる。身近な人にも、自分より忙しい人は見つかる。
その全員が休むまで待っていたら、自分の休む番は来ない。
ほかの誰かが頑張っていることは、自分が休んではいけない理由にはならない。
そう知っていても、気持ちがすぐ追いつくとは限らない。頭で認めたことに、体が慣れるまで時間がかかることもある。
休んでいると、自分の価値まで止まる気がする
仕事をしていれば、今日したことを説明できる。
問い合わせに答えた。会議に出た。資料を仕上げた。家事なら、洗濯をした、食事をつくったと言える。
何もしていないと、報告するものがない。
誰にも提出しない一日のはずなのに、何か言えることが欲しくなる。
「役に立った」「進んだ」「片づいた」。そうした手応えで自分を確かめてきたなら、何も生み出していない時間は、心細い。
休みが苦手なのは、予定の組み方だけの問題ではない。何もしていない自分を、どう扱えばよいか、まだ慣れていないのだと思う。
そこで、休みの日まで成果をつくり始める。
積んでいた本を読み切る。運動の記録を伸ばす。行きたかった店を回る。どれも楽しいことだが、終わらなかった日に自分を責めるなら、また別の勤務表になってしまう。
休む時間にも、できたことの一覧が必要なのだろうか。
元気に戻るためだけに、休むのだろうか
よく休めば、次の日によく働ける。
それは、休むことを説明するときの、わかりやすい理由になる。
実際、休んだあとに楽になる日もある。ただ、その説明だけだと、元気が戻らなかった休みを、失敗にしてしまう。
一日休んだのに、まだ眠い。旅行したのに、月曜がつらい。何のために休んだのかと、また自分を責める。
体調や気分は、使った時間に合わせて、きれいに回復するものではない。
休んだ分だけ成果を出さなければならないなら、休息まで借りた時間になってしまう。
次の働きで返すために、一日を借りる。その考え方のままでは、仕事から離れても、仕事の勘定が続いている。
疲れているから、今日は休む。今は何かをする気になれないから、用事を減らす。
その理由を、未来の成果で補強しなくていい。
仕事は暮らしを支えるためにある。暮らしの時間すべてが、よく働くための準備でなくてもよいはずだ。
休めない事情と、休んではいけない気持ち
もちろん、気持ちの持ち方だけで休めるわけではない。
人手が足りない。休むと収入が減る。育児や介護に代わりがいない。そうした事情を、「自分を許そう」という言葉だけで扱うのは無理がある。
実際に誰が何を引き受けるのか。どの用事を減らせるのか。使える支援や制度はあるのか。
必要なのは、負担の分け方を変える相談であることも多い。
一方で、周りが休んでよいと言ってくれているのに、自分から用事を足してしまうこともある。
その二つは、分けて考えたい。
今、本当に自分でなければ困ることは何か。明日でもよいものはないか。誰にも頼まれていないのに、先回りしていることはないか。
全部を自分の思い込みにしてはいけないし、全部を変えられない事情にまとめる必要もない。
具体的に一つずつ見ると、今日だけ手放せる用事が見つかることがある。
罪悪感がなくなるのを、待たなくてもいい
何もしない日をつくっても、最初は落ち着かない。
仕事の画面を開きたくなる。片づける場所を探してしまう。そんな自分に、「休むこともできない」と新しい評価をつけないでおきたい。
長く続けてきた過ごし方は、一度決めたくらいでは変わらない。
気になる用事があるなら、必要なものだけ書き留めて、いつ見るかを決める。今すぐ対応が必要な連絡と、明日でよい連絡も分けておく。
それでも残る落ち着かなさは、しばらく残っていてよい。
罪悪感を感じたことと、悪いことをしたことは、同じではない。
今日は休むと決めた。その決定を、気持ちがざわつくたびに取り消さなくていい。
途中で散歩に出てもよいし、結局少し掃除をしてもよい。何もしないことを完璧にやり遂げる必要もない。
自分を働かせるための命令を、今日だけ少し減らす。そのくらいからで十分だ。
自分にだけ、厳しい条件をつけていた
体調の悪い友人が、休んでいると申し訳なくなると話す。
それを聞いて、「もう少し頑張れるでしょう」とは言わないと思う。
何か成果を出してから休んで、とも思わない。元気になったら、お返しに役に立ってほしいわけでもない。
ただ、その人がつらい思いをせずに過ごせたらよいと思う。
自分について考えるときだけ、条件が増えていないだろうか。
十分に働いたら。人に迷惑をかけなければ。休んだあとに、今まで以上に頑張れるなら。
その条件を全部満たせる日は、少ない。
同じ人間なのに、自分だけは、毎日役に立ち続けなければここにいてはいけないように扱っている。
いきなり自分を好きにならなくてもいい。せめて、友人には言わないほど厳しい言葉を、疲れた自分に浴びせないでいたい。
休養を取ってもつらさが続くときは、一人で休み方を工夫し続けず、専門家に相談してよい。休みを上手にできるかどうかの試験ではないからだ。
一緒に休めない日にも、話せることはある
家族や同居している人が忙しく動いていると、自分だけ座っているのが気になる。
実際に家事が偏っているなら、そのままにしてよいわけではない。何を誰がするか、今どちらに余裕があるかは、具体的に相談したい。
ただ、その場で動いている人がいるたびに、必ず自分も立ち上がらなければならないとなると、交代で休むことができなくなる。
午前は自分が引き受けた。午後は相手に任せる。体調の悪い日は頼り、余裕のある日に担当を増やす。
毎分の動きをそろえるより、少し長い目で負担を分ける方法もある。
「何かすることある?」と聞き続ける代わりに、「三時までは休みたい。夕食は自分がつくる」と伝える。それだけで、お互いの見通しが立つこともある。
休む人のそばで、別の人が動いている。すぐに片方が怠けていると決めずに、そういう時間を暮らしの中につくっていく。
自分が休めるようになることは、周りの人にも、疲れたときに休んでよいと伝えることになる。とはいえ、その効用まで、休む資格にしなくていい。今日は、自分が疲れたから休む。それでよい。
今日の報告は、なくてもいい
夕方になって、カーテンの隙間の光が細くなった。
昼寝をした。お茶を飲んだ。途中まで見ていた番組の続きを、少し見た。
特に片づいたものはない。明日に向けて、すっかり元気になったとも言えない。
何をしていたかと聞かれれば、休んでいたと答える。
そのあとに、でも本は読んだ、と付け足さなくていい。
窓を開けると、外の空気が少し冷たかった。そろそろ夕食を考えようと思う。
何も進まなかった今日も、自分の一日だった。
